金閣寺って他のお寺と比べると、趣がちょっと違っていますよね。
金ぴかであることがまずお寺らしくない。
「これが本当にお寺なの?」というのが、一目見た時の正直な感想です。
それは、そもそも金閣寺はお寺として建てられたものではないから!ですよね。
じゃあ、元は何だったの?と、疑問が発せられたらもうこっちのもの。
金閣寺の歴史を簡単に説明する方法と、その建てられた理由、さらに豆知識もご紹介していきます。
目次
金閣寺の歴史を子供に簡単に説明する方法とは?!
修学旅行の定番であり、外国人観光客にも人気の金閣寺ですが、何の知識もなく、一見してあの建物を「お寺」と見なす人はいないでしょう。
金閣寺の外見がスタートライン!
まずは、金閣寺の外見に注目しましょう。
京都にはたくさんのお寺がありますが、金閣寺はそのどれとも似ていません。
他のお寺は古めかしくて、木目が焦げ茶色に出ていて、縦というよりも横に広い感じの建物です。
あんなに金ぴかで高い建物のお寺は他にありませんよね。
「金閣寺」って変わっています。
そのことを認識することが、スタートライン。
そもそも私たちが「金閣寺」として見ているものは「舎利殿」という塔で、難しい言葉で言うと「楼閣」という高い建物です。
金箔が施されているので「金閣」と呼ばれています。
「金閣寺」とは、この「舎利殿」の他に「方丈」という入母屋造りの本堂や江戸期に作られた「大書院」、大きな庭園などを含む全体の名称です。
「舎利殿」には仏舎利、つまり仏様の遺骨が納められているわけですが、仏舎利を納めるのに金ぴかの塔を造っちゃうなんてすごいですよね。
金閣寺はどうして金ぴかなの?
すると今度は、どうして金ぴかにしたんだろう?という疑問がわいてきます。
それに対するベストな説明が、それは元々「金閣寺」がお寺として建てられたものではないから―ということ。
では「金閣寺」とは、もとは何だったのか?
どうして「金閣寺」になったのか?
この2つの疑問が引き出せれば、もう後はそれぞれについて解説をするだけです。
整理してみましょう。
疑問を引き出すところから始まり、簡単な答えも入れました。
1.「金閣寺」って金ぴかで他のお寺とは違う!
2.「金閣寺」(舎利殿)はなぜ金ぴかなんだろう? →(答え)お寺として建てられていないから
3.「金閣寺」の元は何だったの? →(答え)北山殿という足利義満の住居だった
4.なぜ「金閣寺」というお寺になったの? →(答え)足利義満の遺言によって
こうなると、「足利義満って誰?」ということになりますね。
室町幕府第3代将軍である足利義満。
- 彼は、どうしてこのような建物を建てそして住まいとしたのでしょうか?
- そしてなぜ遺言でお寺としたのでしょうか?
金閣寺が建てられた理由って何?
「金閣寺」が建てられた理由は、この世に極楽浄土を表すとともに、それを造った足利義満の権力のすごさを誇示するためです。
どうだ、すごいだろう!ってことですね。
平清盛が武士で初めて朝廷のトップ太政大臣に就任して以来、日本は武士なしには秩序が保てなくなっていました。
抵抗する天皇家や公家たちをしり目に鎌倉幕府、室町幕府と武士の世の中が続きます。
足利義満は室町幕府の第三代の征夷大将軍です。つまり武士の中のトップです。
さらに、太政大臣にも就任するので、朝廷の位の中でもトップに立ちました。
もうこれ以上の上の位は天皇しかありませんが、さすがに天皇の位は正当な血筋でもなければ望むことはできません。
義満は将軍や天皇をしのぐ権力手に入れようと考えます。
当時、アジアにおける最高の権力をもっていたのは中国=明の皇帝でした。
この皇帝から日本における権力者としてのお墨付きを得るためには、使節を送って貢物を受け取ってもらう必要がありました。
邪馬台国の卑弥呼なんかがやっていましたね。
これを冊封体制と言い、中国の勢力下に入ることで交易が行われ、日本側にとっても利益になることでした。
しかし、一方では独立国家としての主権を奪われることを意味し、鎌倉時代には「元寇」といって、冊封体制下に入るよう攻めてきた元の軍隊を時の幕府は追い散らしています。
義満はむしろこちらから進んでこの体制下に入ろうとしました。
しかしながら、この交渉はなかなかうまくいきません。
というのも、中国はその国のトップとの交渉しか受け付けず、日本では南朝の懐良(かねよし)親王を「日本国王」として認めていたからです。
実は、懐良親王は喜んで「日本国王」の称号を受けていたわけではありません。
その頃、中国と日本の間にある東シナ海では、「倭寇」と呼ばれる海賊が暴れまわっていてとても困っていました。
「倭」というからには日本人をさしますが、実際のところ本当に日本人かどうかは分かっていません。
とにかく中国側は日本人だと決めつけて、懐良親王に対してリーダーなら何とかしろ、できないならお前を捕らえちゃうぞ、と脅しをかけていました。
名指しされた懐良親王はたまったものではありませんよね。
「日本国王」と呼ばれたくない懐良親王に対して、その称号が欲しい足利義満。
そこで、義満は将軍の地位も太政大臣も辞任して出家をしてしまいます。
法名は道義。
そして一僧侶として明に使節を派遣しました。
懐良親王側が衰退していたこともあり、義満は明の皇帝から「日本国王」として認められます。
これにより、中国と日本との国交が樹立し、日明貿易つまり勘合貿易がはじまります。
義満は「国王」の地位とともに、交易による多くの利益も得ることになります。
「金閣寺」が建てられたのは、義満が出家をして明との交渉を実現しようと試行錯誤している時でした。
山荘として建てられたので、「金閣寺」ではなく地名から「北山第(ほくさんだい)」と呼ばれました。
義満は全く何もなかった所にこの「北山第」を建てたのではありません。
「金閣寺」がある辺りは平安時代から景色の良いところとして有名で、
天皇の陵墓や多くのお寺が建てられていました。
鎌倉時代に入ると、西園寺公経(きんつね)という公卿(朝廷の高官)が、
この場所に山荘を建てます。
その名も「北山弟(ほくさんてい)」。
「北山弟」は鎌倉幕府の衰退とともに荒廃していきます
そして室町時代。第三代将軍として足利義満がその座につきます。
義満はこの地がどうしても欲しかったのでしょう。
河内の所領と交換にこの地西園寺家から譲り受けるという形で、この「北山弟」を受け継ぎ、さらに豪華な山荘としてリフォームしていきます。
ああ、だから「金閣寺」って金ぴかでお寺らしくないんだ。
それは元々が豪華な山荘だったから。
まあ、そういうことも確かに言えるでしょう。
しかし、義満は最初からこの山荘をいずれはお寺にするつもりでこの建物を建てました。
現在、私たちは「金閣寺」といっていますが、正式には「北山鹿苑禅寺」という名称で
臨済宗相国寺派の禅宗のお寺です。
「鹿苑」というのは義満が亡くなった時につけられた法号で、遺言により禅寺にするにあたりこの名がとられました。
ところで、この相国寺も足利義満が建てたお寺です。
「花の御所」というのを聞いたことがありますか?
足利義満の邸、つまり住居であるとともに政務を行う場所で、
京都の室町通に正門が面していたことから「室町第」とか「室町殿」とよばれました。
将軍の居る場所を「幕府」というので、この幕府を「室町幕府」といいます。
歴史用語としての「室町幕府」や時代を表す「室町時代」はここからとられています。
相国寺はこの大きな「花の御所」の近くに建てられました。
お寺はどういう人たちが建てるの?
お寺はどういう人たちが建てるか知っていますか?
日本に仏教に入ってきてから長い間、お寺を建立しているのは、多くの天皇や有力な貴族そしてその時代の権力者たちです。
お寺を建立し保護することは、人々の信仰心を集めるとともに寺社勢力をおさえることができました。
義満自身もまたそのような理由から相国寺や金閣寺(鹿苑寺)を建てたと考えられています。
相国寺の建立に次いで北山弟を西園寺家から譲り受けた時、ここを修行の場としようと
考えていたといわれています。
いかにも信仰厚い僧侶らしい感じがしますが、果たしてそうでしょうか?
義満が信仰した臨済宗というのは「禅宗」です。
「禅宗」とは特別な経典を定めず「禅」を通じてお釈迦様の心を受けるもので、悟りを求めるためには「出家」をしなければならないといわれています。
さらに、明との交渉での僧侶としての地位は、いかにも欲のない世俗から離れた印象を受けます。
「僧侶」というのは、とても都合の良い肩書であったといえるでしょう。
つまり仏教界における自らの地位の確立と明との交渉、義満はベストな判断をしたわけです。
義満は世俗の世界においても宗教界においても頂点に立つことを望んだということです。
金閣寺ってどうなってるの
さて、金ぴかの「金閣寺」、正しくは「舎利殿」で「金閣」と呼ばれていますが、
二層と三層に金箔が張られています。
義満が建造した当初からこのような豪華な建物でした。
金閣寺の第一層は?
第一層は白木の寝殿造りで、貴族の邸宅を思わせる造りになっています。
「足利義満像」と「釈迦如来坐像」が、置かれていたといわれています。
現在は放火により「義満像」はありませんが、お釈迦様の像と並んで据えられているなんて、普通ではちょっと考えられません。
義満の自己顕示欲もここに極まれり、という感じですね。
また、この一層だけに金箔が張られていない理由として、今は武士の時代であり、
権力を失った公家は不必要な存在であるということを表しているということです。
金閣寺の第二層は?
第二層には岩屋観音坐像とそれを取り巻くように四天王立像が置かれています。
武家様式で第二層に据えることにより、公家よりも武士の方が高い地位にあることを表していると考えられています。
天井には天を舞う天女が描かれ、壁や床はすべてつやつやとした光沢のある黒漆塗りになっています。
鎌倉風の質実剛健な武士像からはだいぶ違った趣があります。
金閣寺の第三層は?
第三層は禅宗様式で、仏舎利つまりお釈迦様の遺骨が納められています。
こちらは床面だけが黒漆塗りで、壁と天井はすべて金箔が張られています。
舎利殿は、足利義満が公家や貴族たちを制圧し、武士の頂点にあってさらに世俗の世界だけでなく仏教の世界においてもそのトップに立ったことを意味しています。
庭は池泉回遊式庭園といって、さまざまな石や岩を配して島とみなした池を据え、その周辺を歩けるように歩道が通っています。
衣笠山を借景としていますが、日本列島すべてを取り込んでいるともいわれ、そこに立つ者をまるで全ての支配者、全ての王であると思わせるような仕掛けになっています。
もちろん実際にそれを造った人、義満自身が自分の権力を見せつけているということです。
義満は息子の義持に将軍職を譲ると「北山殿」に基盤を移し、こちらで政務を行うようになります。
室町の「花の御所」から「北山殿」が政治の中心になっていきます。
西園寺家から譲り受けてから10年、当時の後小松天皇を迎え、盛大な饗宴が開かれました。
義満に自慢気に案内されて歩く後小松天皇は、さぞや奥歯をかみしめながらであったであろうと想像されます。
また、義満は後小松天皇と並んで座ったといわれています。
義満にとっては生涯で最高の時、後小松天皇にとっては最高に嫌な時間だったでしょう。
「金閣寺」とはまさに足利義満の描く世界の有り様であり、野望の象徴であったといえます。
金閣寺のアッと驚く豆知識は?
ちょっとまとめてみますね。
① 総工費は何と100億円!
② 諸大名からの徴収分と勘合貿易でまかなった
③ 義満はどうしても舎利殿だけは造りたかった
金閣寺と言えば気になるのがその金の量ですよね。
現在の金閣寺、つまり舎利殿は、1986年(昭和61年)~1987年(昭和62年)まで、約1年8か月にわたって修理が行われました。
1950年の放火で再建はされていましたが、10年たち金箔はすでにボロボロの状態だったそうです。
ということで修復が行われたのですが、総工費は約7億4千万円、金箔は約20万枚、なんと、約20㎏もの金が使われたということです。
では、義満が造った当時はどれくらいかかったか?ですが、およそ今の金額にして100億円だったといわれています。
これは舎利殿だけでなく本殿や庭園なども含む費用だと思いますが、とにかくとてつもない金額ですよね。
幕府自体にはそんなは大金ありませんでした。
義満はいったいどこから集めてきたのでしょう?
それは諸大名からのかき集めたといわれています。
といっても全額を資金として無理やり出させるというのではなく、労働力や資材などの提供を強制しました。
このようなやり方はこれまでもそしてその後の歴史においても、お城の造営、改築・増築などでもよく行われることです。
とはいえ、これだけでは絶対に足りそうにはないですよね。
どこから捻出すればいいか?
なにか大きな利益を生む方法はないか。
莫大な利益を生むもの、それは貿易です。
義満が明との貿易を強く願ったのは、一つにはこういう理由があったからかもしれません。
ただちょっと待ってください。
時系列をよく見ていきましょう。
西園寺家から「北山弟」を譲り受け「北山第」を造営し始めたのが1397年。
そして舎利殿が完成したのが1398年。
僅か1年足らずで舎利殿は出来上がっています。
それに対し明との貿易はというと、使節を派遣したのが1401年、「日本国王」として冊封された(明の勢力下に入った)のは翌年の1402年です。
そしてようやく勘合貿易が始まったのはその2年後の1404年。
つまり、舎利殿はもうずっと前にでき上っちゃっている!
ということはどういうことか?
義満は舎利殿をどうしても造りたかったということです。
頭の良い人ですから義満には目算はあったと思われます。
実際に中国、明との交渉は成功し、勘合貿易により多く富が生まれたのですから。
金閣寺の他の建物や施設はその富をもとに造られていったと考えられます。
でももし、万が一交渉が成功しなかったら、まだまだ長引いていたら…。
義満がその後10年もしないうちに亡くなっていることを考えると
金閣寺の様相は現在とはだいぶ異なったものになっていたでしょうね。
まとめ
金閣寺について子供に簡単に説明する方法は、まず他の寺院などと全く異なるその金ぴかな外観に注目してもらうことから始めるといいと思います。
ふつうお寺というのは、お坊さんたちの修行の場であり、仏様と向き合う場と考えられています。
しかし金閣寺は初め山荘として建てられました。
そのため、建てた人の意向と目的が色濃く反映されています。
金閣寺は、室町幕府第三代将軍足利義満がその権力を示すために建てられました。
金ぴかの輝きはこの世に極楽浄土を現し、同時に義満の威光の絶大さを表現しています。
三層からなる舎利殿は義満の世界観であり、もはや貴族の世ではなく武士の世であること、そして仏教界においてもトップである義満自身が頂点にあることを強調しています。
ところで、これだけ金ぴかにするにはたくさんのお金が必要でした。
豆知識では、総工費が約100億円であったこと、舎利殿だけは義満がどうしても造りたかったということを紹介しました。
1408年、後小松天皇の行幸で金閣寺において盛大な宴を催したのち、4月義満は病に倒れ5月には帰らぬ人となります。
享年51歳。当時としても早すぎる死といえるでしょう。
金閣寺=舎利殿の黄金の輝きは永遠です。
彼はそれを見せつけることで将軍の権力を内外に発信しました。
そしてそれは21世紀の現在まで届いていますし、これからも発信し続けると思われます。